cozy-nest 小さく整う暮らし

男子3人を持つワーママ、尾崎友吏子がつづる、暮らしをダウンサイジングして、すっきり簡単に片付く、自然に優しいシンプルな生活。

「表現の不自由展」騒動に感じる違和感

開幕直後から批判や抗議が相次ぎ、とうとう公開中止になったあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」。

実行委員長の愛知県の大村知事や、監督の津田大介氏の記者会見をみて、いくつかの疑問や問題点を感じたので、個人的な見解から、整理してみたいとおもいます。


公の施設、税金を使ったイベントであること

まず、表現の自由というのは、認められるべきだと思います。

どんなアートでも、人によって好き、嫌いはあると思いますし、表現するのも自由です。

慰安婦像のコピーを見て、何を感じるかというのは、それを見た人が感じることであり、それは見た人に委ねられるべきだと思います。

ただ、自由という名の下には、責任というものが存在します。自由というのを良いことに、なんでもやっていいということではないですよね。そんなの、中学生ぐらいのときに学んだはず。

今回の展示は、その自由というのを、やんちゃな中学生レベルで履き違えているんじゃないかと思います。自由には、守らなければならない一線もあると思いますが、それを超えていると感じます。

開催者側がいくら否定しても、作品群は、大多数の日本人が、芸術的価値を見出すよりも先に政治的プロパガンダとして受け止めてしまうような内容です。

それを、自由といって公の場にさらけ出すのも自由かもしれません。

私が問題だと思ったのは、これは公費を使い、公の美術館で開催されている企画だからです。

もし、「自由」にやりたければ、個人の資金で、民間や個人の美術館でやればいい。

私も、このブログで好きなように好きなことを書いています。これは私の自由であり、それを不快に思う人は見にこなくてもいい。

それと同じで、津田大介氏や大村知事のリビングででも開催されたらいかがでしょうか?そうすれば、誰にも迷惑をかけず、誰も傷つけることなく彼らの「芸術」を「自由」に表現できます。


私が、愛知県民なら、税金が政治プロパガンダまがいの展示に使われるのは、とても悲しく、そんなことのために税金をはらっているんじゃない!と思ってしまうにちがいありません。


こちらを見る限りでは津田氏は確信犯ですね。
動画では、アートでなくプロパガンダということを表明してしまっています。一緒に展示された真面目な他のアーティストにとっても迷惑なのではないでしょうか。



また、作品群は、右寄りの勢力で撤去を余儀なくされたものばかりらしいので、本来の趣旨に沿うなら左からの苦情で中止された
ものも同等に扱うべきだったのではないかと思います。
headlines.yahoo.co.jp




自己弁護に走った大村知事の残念な会見

実行委員長は愛知の大村知事だったということで、大村知事は責任を問われています。

その数日後、批判や抗議、テロじみた脅迫に屈した形で展示は中止となりました。河村市長の指摘に対しては大村知事は「憲法21条にある検閲に関する条項に反している」などと反論しています。

でも、ちょっと待ってください。このイベントの主催者は、公的機関なのですよね。自分で精査しなかったコンテンツが不備だったからといって、それをあとで問題になったからと、「自分(知事)が認めて発表した展示物が自分(知事)の意向で撤去する」のは、「検閲」というのでしょうか?


大村知事も、一般公開される前に実際に展示物を視察したといいますが、問題を感じていなかったのでしょうか。多くの日本人が傷ついた気持ちになる不快なコンテンツということも理解していたのでしょうか。


そして、もし、本当に内容を精査した上で「問題になり得ない」と承諾したのなら、愛知県は展示を肯定することにもなり得ます。

昭和天皇のお写真が燃やされる動画が公開されているとのこと。
動画をアップするのも憚れるので、ご覧になりたい方はネットで下記ワードを検索してみてください。

#あいちトリエンナーレ #表現の不自由展 #不敬


こちらは憲法第一条を毀損することを、大村知事が認めたように感じるのは私だけではないはず。日本人の多くは大村知事には同情できないでしょう。この動画を作品として並べた大村知事と津田大介氏の説明を聞きたい。


100歩譲って、焼かれ、踏みつけられたお写真が昭和天皇でなくて、他の誰かの肖像であったとして、それが「表現の自由」として、または芸術として認められるという意見はあまりにも横暴。

その写真が、もし自分の父や祖父、子どもだったら?と思うだけで悲しいです。


また、河村市長の指摘に対して、「検閲にあたるのではないか」という反論は、他の多くの問題点を隠そうとする、論点のすり替えです。コンテンツが問題になっているのに、開催中止の理由は、「テロ予告により開催続行を余儀なくされた」。多くの人の感情を逆なでしておきながら、ご自身は被害者になっていますが、とうてい同情できるものではありません。




重要な部分を報道しないオールドメディア

テレビや新聞の報道をみると、大村知事を擁護する立ち位置です。
コンテンツの問題は取り上げられず、大村知事の被害者ぶりや河村名古屋市長への反論ばかりが目につきます。

また、問題視されているのは慰安婦像ばかりで、テレビではなぜか昭和天皇がらみのコンテンツはスルー。こちらのほうが重要だと思うのですが、一体どうなってしまっているのでしょうか?

ネットでは、個人が自由に書き込めるため個人のダイレクトな意見が見られる反面、どれが真実かわからずフェイクニュースも紛れていて混乱します。

とはいえ、今回の「表現の不自由展」の報道では、展示物に不快を示す意見のほうが多数と思われるも、それらはテレビだけ見ていると、ほとんど公開されていませんのでわかりません。

「テレビや雑誌、新聞などは、都合のよい切り取られた一部しか報道しない。」それが常識となったのは、ネットのおかげだと思います。

とはいえ、今でもテレビの与える影響力は強力で、とくにネットをほとんどつかわずテレビや新聞しかみていない層に、切り取られた一部がすべてだと思わせるには十分な力です。


こうした情報の偏りは、ネットでも同様に存在します。というのも、自分が検索したり、閲覧したりした類似の記事やtwitterでフォローしている人のフォロワーが、「おすすめ」記事やおすすめの人物として候補にでてきて、知らないうちに似たような情報しか目にしなくなるというものです。

こうした偏りがあることは、情報に接する時には常に意識していなければならないことです。メディアや環境にあるフィルターを通した情報だけが、手元にくる。そして、その外にも情報はあるということです。

私は、大学のときに海外に住みはじめて初めて、これまでの自分が日本の中での小さな、狭い世界に生きていたことを思い知らされました。

それまで学校で学んだこと、それまで読んだ本、実家で読んでいた新聞が本当だと信じていましたが、それ以外にも国によって考え方は大きく異なることを知りました。

今まで、「これは正しいはず」と考えていた思い込みは、実は真実の全体像ではないのかもしれません。


FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣


真実として言えることは、
この展示が、炎上を狙い、議論され、撤去されたことで「表現の不自由」という狙いがある意味達成されたこと、そして、この展示に対して、「私が不快に思ったこと」です。

それにしても、もっとマシなコンテンツなかったんでしょうか。